Noël Café : Blog
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ヨーロッパとアジア

石川 九楊 : 「書く」ということ図書館の筆記具コーナーにあったので
"書"系の本だと思いました。
読んだら、大まじめに書いてあってびっくり。
Titleに書いてあることをマジで考えました。
石川 九楊 : 「書く」ということ


日本をはじめとする(東)アジアにおける「書く」ことと
キリスト教系の地域での「書く」こと。
全然違うんだと。
言われてみれば、
こっちのお習字は、印刷が明朝体としてまねをしている。
だけど、向こうのお習字であるカリグラフィーは、
印刷をまねしている。
宗教的な問題からも、考え方は全く違うし、
向こうで創られたタイプライターいや今はPCになっているが、
を、利用して自分の考えていることを書いてって、
推敲の民族であるこちらでは有る意味へんな話。
確かに、私も、今になって程々ちゃんとした日記は
ノートに書いている。
思考回路直(チョク)で手には物事が行く。
漢字とかひらがながつづられる。
でも、キーボード相手だと、
ローマ字やひらがな(入力の方法よりけり)から変換作業を通して
やっと物事が阜サされる。
そして、推敲という作業を通して、組み立てられていく。
今、そのような作業が有るのだろうか??
確かに、推敲をやるのも楽になった。
一から書き直す必要もないし。
(校正作業は本当に面倒で大変である。中学生の時に実証済み)
でも、誰もかもが、簡単に文章をつづることが出来るようになり
文学賞系の敷居が低くなったらしい。
笑ってしまうほど多くの作品が投稿されるらしいから。
筆者が文学賞は自筆に限ると言うのもよくわかる。
書くという作業を重視する必要があるとおもう。
打つというのは片手間的な動作だと思うから。


もちろん、このブログも、思ったことを
てきとーにつづっているから、文学的要素は全くない。
肝心な物はノートにつづっている限り。
そして、頭の中で(もしくは神経細胞にデータが移動する直前に)
ローマ字に変換している時点で。


キリスト教の地域(というと語弊があると思うけど)の文化を
すべてきれいに受け入れて良いのだろうか?
歴史もそうだけど、
考え方の根底を考慮するとすべて受け入れるのはおかしな話だと思う。
第一、唯一絶対神を信じている訳ではないし、
宗教事態の存在も向こうとは違うんだから。
すべてが出来るなんておかしい。
そんなわけで、やっぱり世界史をお勉強したいと思う
新年事始めでした。

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